地元再発見

2010年7月13日 (火)

愚陀佛庵

昨日(7/12)、松山地方は朝から短時間で記録的な豪雨が降り、道路が冠水したり、住宅が浸水したりの被害が発生したが、そんな中で、ショックなニュースが飛び込んできた。

松山市にある「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」が、建物の裏手にある松山城の城山が崩れ、木や土砂で押し流され、全壊したということだ。

愚陀佛庵は、明治28年に建てられた木造二階建ての建物で、夏目漱石が松山に中学校の教師として赴任していた際に、下宿していた家屋だ。一時は、病気療養のため松山に帰省してきた正岡子規が居候し、1階に子規が、2階に漱石が住み、互いに俳句作りに没頭したとも言われている。

昭和20年、空襲で消失したが、その後、現在地に移築復元され、俳句都市松山の人気観光スポットにもなっていた。

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僕も、休日に松山城周辺を散策するときには、いつも立ち寄っていたのだけど、風情があってとてもお気に入りだった。その歴史と文化が香る建造物が全壊してしまったのはとても残念でならない。

しかしこれも天災。則天去私と言った夏目漱石や、自然に向かい合い俳句に詠い込んだ正岡子規は、天災もまた自然のひとつと、受け入れたかもしれないという気がする。

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2010年5月23日 (日)

筏津坑

愛媛県新居浜市(旧別子山村)にある旧住友別子銅山跡が、日本の近代化遺跡として注目されている。標高1000メートルほどの高地にあることから、東洋のマチュピチュなどとも呼ばれ、県外からバスツアーで訪れる人も多いとのことだ。

昨日、東赤石山登山へ行った際、登山口にある筏津山荘に駐車させてもらったのだけど、筏津山荘の裏手には、住友銅山のかつての坑道入口があり、無料で公開されていたので、登山を始める前に見学させてもらった。

<↓筏津坑道口>

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この坑道は、別子に4つあった鉱床のひとつ筏津鉱床への坑道だそうだ。その筏津鉱は、明治11年(1878年)に開坑に着手し、一時、休坑した時期もあるが大正時代に再開し、昭和20年代には別子銅山の産出銅増加に大きな役割を果たしたのこと。そして、昭和48年(1973年)に筏津坑は終掘し、元禄4年(1691年)以来、283年に及んだ別子銅山の歴史に幕を閉じた。

この坑道口は、昭和15年(1940年)に新筏津坑口として開坑したもので、昭和48年の閉坑までの間、筏津坑労働者の出入り口として使われていたとのことで、日本の近代化遺跡がそのままの姿で公開されている。近代化遺跡の本物をまじかに目にして、肌で感じることができる非常に貴重な施設だと僕は思う。

<↓坑道内部>

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坑道の内部に入ると、空気は湿っぽく、外気よりもかなりひんやりとして冷たく感じた。その独特な雰囲気の中で僕は、夏目漱石の小説『坑夫』じゃないけれど、この坑道を通って、地底深くへともぐり込んで行った当時の労働者たちの気持ちはいったいどんなものだったのだろうかと、しばし思いをめぐらせた。

<↓坑道内には貴重な資料が展示されている>

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<↓人や物を運んでいた電車「かご電」>

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2010年1月16日 (土)

庚申庵

以前からずっと一度訪れたいと思っていた「庚申庵(こうしんあん)」へ行ってみました。

松山市味酒町にある「庚申庵」は、江戸時代末に松山で生まれた栗田樗堂(くりた ちょどう)(1749~1814)が、市中の名利を捨てて風雅の誠を求めた生き方をしたいとの思いから、松山城の西方に建てた草庵だ。江戸時代に建てられた小さくて粗末な草庵が、都市化の波に抗いながら奇跡的にも大切に残されてきたが、傷みが激しく倒壊の危機にあったことから、平成14年に復元された。

2年ほど前、松山城の近くをウォーキングしているときに、観光客の方に「栗田樗堂の庚申庵はどこですか?」と道を尋ねられたが、僕は栗田樗堂という名前も、庚申庵という存在も知らなかったので案内することができなかった。それどころか、「ちょどう」「こうしんあん」という言葉を聞き取る(認識する)ことさえできなかった。家に帰ると早速調べてみて、初めて栗田樗堂と庚申庵のことを知った次第だ。それ以来、ずっと庚申庵を訪れたいと思っていたのだ。

庚申庵はマンションが建ち並ぶ市街地の中にひっそりとたたずんでいるため、場所がなかなかわからなかった。めぼしをつけて周辺をうろついているうちに、ようやく見つけることができた。入口はきれいに整備されているが、駐車場はなく、歩いて訪れるのがいいだろう。無料で入園できるのがうれしいところだ。

<↓庚申庵入口>

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入園すると真新しい管理事務所があり、その前に中庭、その先に庚申庵と庭園がある。

<↓管理事務所と中庭>

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中庭の先にある庚申庵は平屋建ての小さな庵だ。復元された建物であるため、建物自体は新しいものだけれど、小さな庭園や藤棚と一体となってとても風情と趣のある庵だ。周囲は高層マンションや住宅が建ち並んでいるが、ここだけはとても静かで時間の流れ方が違う空間のように感じられる。

<↓中庭から見る庚申庵>

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<↓奥側から見る庚申庵>

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玄関から建物の中に入ることができる。入ってみるとまず、天井の低さに驚いた。部屋は四畳半、三畳、二畳の三間があるだけの非常に質素で簡素なたたずまいだ。障子を通して部屋に入ってくる光がとてもいい感じだ。樗堂が求めた庵の空間は、「わび」「さび」「市中の隠」の精神とのことで、こんな素晴らしい空間の中で俳諧を嗜むとは、本当に風雅のきわみだ。

<↓玄関から部屋に入ってみる>

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<↓手前から四畳半間、三畳間、二畳間>

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<↓障子あかりがとてもいい感じ>

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<↓静寂が支配する空間>

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僕が訪れたときは他には誰もいなくて、まさに貸し切り状態。天気が良くてあたたかい昼下がり、庵の縁側に座り、目の前にある庭園を静かに眺めていると、日常を忘れ、しばし風雅の世界を漂うことができた。閑寂の境を楽しむ実にぜいたくな時間だった。

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庭は、芭蕉の「幻住庵」にならって「細き流れ」を引き入れたもので、小さな空間に自然を表現したものだそうだ。派手さや豪華さはないが、見ていてとても落ち着く感じがする。

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庵から出て、庭園や庵の周りを歩いてみる。

<↓庭園側から縁側を見る>

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<↓井戸と裏庭>

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<↓円形の障子窓>

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庚申庵、街中にあって心が落ち着くとても素敵な空間だった。立派な藤棚があるので、次回は是非、藤の花が咲いている季節に来てみたいと思う。

ところで、栗田樗堂の句といえば

一畳は 浮世の欲や 二畳庵

という句が有名で僕も好きだ。浮世の名利を捨て、たった二畳の草庵で俳諧を嗜んだ栗田樗堂。しかし、人間というものはどうしても浮世を捨て去ることはできないものだ。どんなに捨て去ろうとしても、半分は浮世の欲にまみれて生きていかざるを得ない人間の真理を詠んだ深い句だと僕は思うのだ。

<↓樗堂自画像>

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